らりるれろ

振り返り備忘録*考えている事や思った事などをつらつらと。

千尋が千という名前をもらった時の話

突如として書きたい気分になったのでもう振り返りとか気にせずに書きたい事を書きます。その前に。ちょっと前に書きたい気分じゃなくなった原因が分かりました。そもそも振り返りは書きたい!ではなく整理したい!だったからでした。整理は書くよりも対話の方が楽しくてはかどるのでブログで行うのは辞めてみます。そして書きたい!とは私にとって出したい!であって、本当に私が出したい!のは「日頃から感じている違和感や不思議なことの姿」でした。なので振り返りという整理は別で行い、出したい!を叶える手段としてブログを書きます。
 
とりあえずぶわーっと 「出します
頭可笑しいこと言ってるよと思われるのは前提で、ただ出したいから「出します」
 
 
[ご飯は食べることが目的である]
少し前から食べる事に対するコンプレックスを感じていて、それは食べる時になんだかよく分からない違和感があったからでした。それはただ食べるだけでは可笑しくて、「おいしい」の為に食べる事が「食べる事」であるみたいな。甘い、苦いなど美味しいや不味いの判断(認識)にこだわりそれを目的として食べる事への違和感でした。私が思うに【食べるとは美味しいとか不味いとかではなくて、食べること自体が喜びであって、食べる事を目的として食べている】んだよと。甘いも苦いも含めて食べること(=味わうこと)が幸せで、美味しいから食べるのではなくただ食べるという目的(味わうという目的)で食べているのだと。強いては生きる事もそれに当てはまり、生きること自体が喜びであり(悲しみも嬉しさもそれ自体は判断して創られた認識に過ぎなくて)本当はその瞬間瞬間の「今」生きている(食べている)事実に喜びを感じる事が出来るんだと思いました。
 
 
[木の模様は樹齢の数、魂の模様は輪廻の回数]
ほら、いよいよやばい事言い出したよ、とりあえず出すよ。出会った時になんとなく感じる魂レベルってあるじゃないですか。あれってなんだろうと考えていたんですけど、もしかすると輪廻の回数なのかなと思いまして。木って切断すると◎←このように何十にも模様があって。あれって木の歳の回数つまり樹齢なんだそうです。魂も同じで、輪廻を何回もしていると、◎の丸の数が増えて輪みたいなものが大きくなって魂レベルの違いを生み出しているのではないかと。そして人それぞれで◎の模様は違うし、生まれ持ったきめ細かさ(もろさ)と粗さ(頑丈さ)みたいなものも違いがあるように感じています。
 
基本的に何か考え事をしている時にもしかしてこれはこうなのではないか?というものは大概「閃いた!」ではなく「ずーっと前から知っていたけどなんだか忘れていて今思い出したよ」という懐かしい感覚に近い様に思います。本を読んだ時に、「あ!これだよ言いたかったのって!」ってなるのと同じで、一度いつかの昔に体験した事があって感覚的には知ってるんだけど、上手に言葉(現代語、日本語)にできていなかった、様な。【もしかして人の魂は、身体がDNAという先祖代々から受け継がれているもので構成されているのと同じで、いろんな過去の魂から受け継がれていろんなものを記憶、継承しているのではないでしょうか】とか考えちゃってます。
 
 
[空間の中で自分と相手の振幅が一致したとき共同体になる]
なんだか相性がいい!という人は自分と振幅が非常に似ている気がします。ずっと一緒にいると振幅が自然と似てくるっていうのもあると思うのですが。最近インターンのメンバー4人で語っていた時、なんだか4人が繋がったぞ!という計り知れない喜びを味わいました。1つの空間の中で共同体になった感覚。これって各個人が出している4つの別々のエネルギーが、会話を通して空中で振幅の擦り合わせをし、全てのエネルギーが同じ振幅になった瞬間に、空間も自分自身(魂、強いては肉体である身体)も同じ振幅をする共同体となったからでしょうか。まあビジネスプランの発表をする前日の深夜にこんな事を考えている私は本当に馬鹿だなと思う限りですが【人間本来の喜びはこの共同体感覚にある】んだと思いました。分かり合えた!とかを通り越して4人がその空間そのものになった!という共同体感覚。それは計り知れない程の喜び、エネルギーの集合体を生み出すと感じました。周りの物や空間、人と振幅を擦り合わしてひとつになる、チームビルディングってほんまに大切ネ!
 
 
[相対がなければただ意識の中にあるがままである]
友人と就活の話をどんよりとしていて「私も悩んでいる」という発言をして数分後、「本当に私は悩んでいるのだろうか」ととてつもない違和感が押し寄せてきた日がありました。冷静に考えてみると、一切悩んでいない自分がいる事に気付きました。就活っていうものは私が今興味があって、やりたくてしていて【それ自体はただ私の意識の中にあるがまま】でした。ただ意識の中にあるだけでした。でも人と関わり、会話という手段で「就活」を表に出した時、急に私の意識の中から、社会の中に飛んでいき、そこで初めて善悪のような判断が下されていたのでした。【相対がなければ、ただ意識の中にあるがまま、自分の心がその存在をただ感じている】だけであり、ただ存在を感じる事自体は喜びであるのにな、と。
 
 
[無意識レベルに求めているものがイメージされる]
友人と「イメージ出来る事は実現出来た事が多いよね」という話をしていて、確かにそうだなと共感しました。だから成功者はイメージをするのが上手いとか言われるんだろうなと。だからこそ一般人はイメージをして成功をつかめ!と言われたりしますがいや本当にそうなんでしょうか、と疑問に思い出しまして。まずはイメージとは何かを考えてみて、結論イメージとは自分(輪廻を繰り返す魂やDNA達www)の欲求そのものだと思いました。そもそもある程度イメージ出来る事って「そうなる事が分かっている」感覚に近くって、それって分かるまで勉強しろ!とか分かるまで情報を集めろ!とかの次元ではなくて、本当に心からそうなる事を求めているからであり、「そうなる事」を本当に心から求められるということは欲求そのものが無意識の内にもう既に存在している、もうそれは既に知っているからではないでしょうか。だから【どれだけ勤勉に勉強して情報を知りつくしていても無意識レベルで本当に「そうなる事」を求めていなければイメージなんて出来ない】んだって!だからイメージ出来ないのはそもそもそんなに求めてないんだって!無意識の自分の存在(輪廻を繰り返す魂やDNA達)に導かれてないんだって!だから辞めちゃいなよ!とか持論を馬鹿みたいに唱えるハウツー本を出したい気分です。ただ情報を集める過程で「思い出した!実はかなり求めていたぞ!」というように自分の本当の欲求に目覚める事があるのも事実なのでしょう。
 
 
 
[認識の錯覚が欲求にもおこってるのかな]
【情報が溢れすぎている現代は情報に踊らされて自分の欲求を的確に認識出来ていない】ように思います。①欲求が発動された時②これはこんな欲求だ!という認識をし③その欲求を満たす為にこの手段をとる!と選択して行動し④その結果エネルギーというものが湧いてくる、みたいな構図をひたすら今日は友人に語っていたのですが、何が言いたいかというと、多くの人の不満は、情報というノイズが溢れている事で自分の心の声に耳を傾けにくくなり、②の認識を間違えているから起こっているのではないか、という事です。いくら③で妥当だ!と思う手段をとっていても、そもそも②の認識が間違えているので満たされなかったりするのだと思います。でも行動を起こした先で一時的に①にも②にも③にも捕われない抽象的なエネルギーが湧いてくるのであたかも一瞬満たされた気を味わってしまうのではないでしょうか。すごーくチープな例ですが①「愛が足りない」→②何かお腹がすいた、何か食べたいのではないかと錯覚→③カレーを食べる④エネルギーがわく =エネルギーは汎用性に長けているのであたかも愛が一瞬満たされた様な感覚に陥る。みたいな。
 
 
[千尋が千という役割をもらった時の話]
最近の奇妙な体験。混沌とした日々の中、導かれているかのように「似たことを言ってくる人達」に毎日何人もと出会い「これは何を私に伝えようとしてくれているのだろうか」と思う様になっていきました。そして気付けば段々と自分に託された使命みたいなものを感じる様になりました。なに言ってんだよと内心思いつつも、私は混沌値が最大になった夜、不思議な感覚に見舞われました。それは「千と千尋」の千尋が初めてゆばーばの部屋に訪問する時、猛スピードで扉が勝手に開いていき、気付いたらゆばーばの目の前にたっているかのようでした。なんだか自分の全部が「なにか未知なるもの(=ゆばーば)」に突きつけられて、私は自分の名前をペリッと剥がされて、新しい非常にシンプルな名前(=千)がつけられた様でした。その時にこれが自分に託された使命(役割)か、と肌で感じて、翌朝は混沌としていたものはすっかりなくなりクリアな視界と空と未来が待っていました。
 
千と千尋を初めてみた当時小学生の私は、千尋が不安を抱えながらトンネルに入っていった時に(不安を抱きながら未知の世界に足を踏み入れるという)「同じ感覚を知っている」と思い涙を流したのを覚えています。序盤だし全然泣くシーンではないですがどこかリンクするところがあったのでした。そして今、ああ、ここまで(ゆばーばの部屋にたどり着くまで)長かったなと、自然と涙がでました。「ここから誰の為に、なんの為に生きるのか」というのが明確になり、宮崎駿監督がこういう感覚を偶然ではなく必然的に映画に落とし込みしていたのならば、もう心が震え上がりそうなくらいに感動します。小学生の頃から七夕の短冊では毎年「二十歳で死ぬこと」と書いていましたが、本当に二十歳で二十歳までの私は一度死んで、新しい自分を授かったようです。【役割が降ってきている事を感じると、自分の身体って自分のものではなく、貸し与えられているのだな】と思う様になりました。だから役割を全う出来る様に自分の身体を大事にしないといけないなと身体に対する意識が変わりました。
 
加えて身体(心臓)は誰が動かしているのでしょうか。電気信号でしょうか。その電気信号によって動かされた身体(心臓)という貸し与えられた物質に生と死があるという事は【もはや人間ってプログラミングされているのではないか】とか思っている私もいます。 まあとりあえず私は私だけで成り立っているのではなく、過去の沢山のDNAや魂の集合体で出来ています。そしてその集合体の中で1番表に顔を出す(強くなる)魂が、混沌とした日々を経てついに入れ替わったんだと感じました。
 
 
 
[オーガニックに生きたい]
朝とか夜とかってなんだろう、寝るとか起きるとかってなんだろう、と疑問(違和感)を持たないくらい自然に、オーガニックに生きたいです。生きているそれ自体が喜びであり、その瞬間にだけ自分が存在をしていて【嬉しいとか楽しいではなくその瞬間に生きている事をとにかく味わいたいんだ!】と思っています。
 
 
【まとめ】
①食べるとは美味しいとか不味いとかではなくて、食べること自体が喜びであって、食べる事を目的として食べている
②人の魂は、身体がDNAという先祖代々から受け継がれているもので構成されているのと同じで、いろんな過去の魂から受け継がれていろんなものを記憶、継承しているのではないか
③人間本来の喜びはこの共同体感覚にある
④それ自体はただ私の意識の中にあるがまま
⑤相対がなければ、ただ意識の中にあるがまま、自分の心がその存在をただ感じて喜ぶだけ
⑥どれだけ勤勉に勉強して情報を知りつくしていても無意識レベルで本当に「そうなる事」を求めていなければイメージなんて出来ない
⑦情報が溢れすぎている現代は情報に踊らされて自分の欲求を的確に認識出来ていない
⑧役割が降ってきている事を感じると、自分の身体って自分のものではなく、貸し与えられているのだなと思う
⑨もはや人間ってプログラミングされているのではないか
⑩嬉しいとか楽しいではなくその瞬間とにかく生きている事を味わいたいんだ!
 
 
結構躊躇わずに日頃考えている事を「出してみた」。
すっきり。